杉山城について

杉山城跡は、戦国時代の山城跡です。
鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置した縄張り(城の建物などの配置)となっています。各郭には様々な工夫が凝らされており、攻めてくる敵兵に対して、強い防御力と攻撃力を誇っています。その作りには高度な築城技術が施されていて、「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」という評価がされてきました。

杉山城築城にいたる歴史的背景

戦国時代の初めころ、関東では関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による抗争がありました。「長享の乱」と呼ばれる一連の戦いのなかで、当時の嵐山町は、山内上杉氏の拠点である「鉢形城(寄居町)」と扇谷上杉氏の拠点である「河越城(川越市)」の中間にあり、長享2年(1488)には須賀谷原(嵐山町)で多くの戦死者を出す激しい戦闘がありました。杉山城跡から出土した遺跡の年代は、この戦いの少し後にあたります。そのことから杉山城は山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したものと考えられます。

杉山城の発掘調査

杉山城は長い間、城主や築城年代についての記録がなく不明でしたが、平成14年からの発掘調査で城の年代や歴史的な背景が明らかになってきました。

本郭東虎口と石積み

本郭の東虎口(郭の入り口)は、方形に区画され、内側にはハの字に広がる石積みが発見されました。この他にも本郭南虎口や北虎口、南2の郭南虎口など多くの虎口で石が使われていることがわかりました。

本郭の南虎口の両側からは石列が発見され、また土塁のすその部分にはこぶし大の石が集められていました。

土塁の構築方法がわかる貴重な発見

土塁が直角に折れる部分の土層を見ると、右側の土塁を築いて粘質土を貼った後に、左側の土塁を貼りつけて構築していることが分かる、貴重な発見もありました。

出土品

発掘調査ではさまざまな遺物が出土し、15世紀末から16世紀初頭に近い年代であることが分かりました。出土品には輸入陶磁器(染付・白磁・青磁・褐釉(かつゆう)、国産陶器(瀬戸美濃・常滑)、在地土器(かわらけ・火鉢)、石製品(硯・砥石・石臼)、銭貨、釘、鍛冶滓、壁土などが出土しました。

  • 輸入陶磁器(染付・白磁・青磁・褐釉)
  • 国産陶器(瀬戸美濃・常滑)
  • 石製品(硯・砥石・石臼)
  • かわらけ
  • 火鉢
  • かわらけと火鉢

    出土した遺物の大半を占めたのが素焼きの皿「かわらけ」でした。かわらけはハレの器として正式な宴などで1回限りで使われたものです。またかわらけの次に「火鉢」が多く出土しています。

  • 焼けた土壁が出土した一度埋められた土抗
  • 焼けた壁土とコマイの炭化竹

    本郭からは大量の焼けた壁土とコマイの炭化竹が出土しました。南2の郭・南3の郭からも焼土と炭化物が出土していて、土器なども焼けた痕跡が多くみられました。このことから杉山城では城の広い範囲で火災があったあと廃城になったと考えられます。

国指定史跡への経緯

杉山城はこれまで高度な築城技術から「後北条氏の城」と して広く認識されていましたが、学術的な裏づけはありませんでした。そこで嵐山町では平成14年度から18年度にかけて5回の学術発掘調査を実施しました。その結果、城跡の年代が15世紀末から16世紀前半であり、後北条氏の時代ではなく、それ以前の関東覇権をめぐる山内・扇谷両上杉氏と古河公方による三つ巴の抗争が繰り広げられていたなかで、山内上杉氏によって造られた城であったことがわかりました。こうした学術的な成果により、杉山城跡が高度な築城技術の特徴をもち、良好な保存状態で当時の政治・軍事の様相を良く示していることが高く評価され、「比企城館跡群」のひとつとして平成20年に国史跡に指定されました。